屋号について

出島

dejima d=a1江戸 幕府は、キリスト教の布教を阻止するために当時市内に雑居していたポルトガル人を収容する島をつくりました。
これが出島です。「出島町人」と呼ばれる25人の共同出資によって完成した人工の島で、この町人たちはいずれも長崎を代表する豪商だったそうです。
海の中に島をつくるという発想や土木技術はおどろきですが、ここにも西洋の技術の知恵が入っていたのかも知れませんね。歴史に先人のロマンが感じられます。

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このころ中国系の人たちを隔離したのが、新地という埋立て地です。長崎の行事は勿論、お寺や石橋群は中国華僑の人たちの往来の証です。


1636年から218年間にわたる「鎖国の時代」わが国で唯一海外に開かれた文明の窓口、出島。古き時代の中で素晴らしい日本の伝統文化が築かれてきましたが、海外を見聞し文明を採入れた近代社会の幕開けと言えるのではないでしょうか。
長崎に漂う異国文化の香りを求めた文人墨客、商人、芸人、蘭学を志した人々、そして維新の志士たちが、「 情報や文化や技術」を求めて遥々と長崎街道を歩いてこの地に集って来ました。福沢諭吉、勝海舟、坂本龍馬、上野彦馬といった現代に名を残す偉人達。江戸参府においては、出島和蘭商館長であるオランダ人や商館医のシーボルト、はたまた出島に輸入されたゾウやラクダもこの街道筋を歩いたことでしょう。
長崎は街の至る所に、今も、華やかであったであろういにしえの名残が佇んでいます。
彼らは、何を夢見て生涯の情熱を燃やし続けたのでしょう。

そして現代、かつての出島の役割を、情報通信交流技術(Information and Communication Technology)

が演じて行くものと感じています。

 

通商

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江戸時代の初期にオランダから輸入していた主なものは生糸、オランダに輸出していた主な品は銀でした。
江戸時代の中期以降は、羅紗(らしゃ)、ビロード、胡椒(こしょう)、砂糖、ガラス製品、書籍などを輸入し、銅、樟脳(しょうのう)、陶磁器、漆(うるし)製品などが輸出されていました。
嬉野のお茶や有田・伊万里の陶磁器をはじめとして、九州各地、日本全国との海外交易が出島を経由して始まりました。

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情報が流れ、人が集い、物が行き交う。そしてまた繰り返される。
その繰り返しの中で国境を越え人々の友好や国と国の信頼が深まる。世の中の動きの先端が情報であったこと、時々に情報も真実であったり嘘であったり投機であったりし、その信憑は情報の橋渡し役(ひと)にかかっていたと思われます。

「人を主役に、人と人 企業と企業の得意技を結びつける」

そのような役割を演じたい。

それが、出島通商でありたいと思っております。